遠州福田六社神社祭典 浜松まつりの屋台と彫刻
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社寺や山車・屋台などの建築彫刻を手がける職人のことを堂宮彫刻師といいます。ここでは遠州の屋台に携わってこられた彫刻師さんをご紹介します。基本的に私が個人で訪ねてお話を伺い写真も撮っています。
(あいうえお順)

《ご参考》
→浜松百撰1972年5月号No.174「屋台特集」PDF~浜松百撰編集部さんの許可を得て掲載


《静岡県》

雨宮國雄(あめみやくにお1949-)
雨宮國雄号=一行(いちぎょう)
昭和24年(1949)9月東京都江東区生れ。高校卒業後、専門学校を経て航空写真測量の会社勤務。23歳のときにテレビで紹介されていた井波彫刻に憧れ彫刻の道へ進むことを決意。井波の高田乾行(たかだけんぎょう)師の下で3年、飛騨高山で一位一刀彫を2年独学、京都の仏師の下で5年修行したのち遠州へ移り住んだ、浜松市天竜区二俣町阿蔵・玖延寺(きゅうえんじ)の雲中供養菩薩像6体を手掛けたのが最初の仕事となる。専門の仏像の注文をこなしながらこれまでに19台ほどの祭屋台彫刻を手掛けている。
→2013/05/01_訪問記


井口寛臣(いぐちひろおみ)

→2005/02/22訪問記


池島康輔(いけしまこうすけ1983-)

→2022/11/27訪問記


伊藤章晴(いとうふみはる1951-)
伊藤章晴号=章晴(しょうせい~本名の音読み)
昭和26年(1951)三ヶ日に生まれる。地元の高校を卒業後就職したが、20歳の時に新聞で紹介されていた井波彫刻(富山県)の特集記事を読んで彫刻に興味を持つ。そこで記事で紹介されていた二代目南部白雲師の門を敲いて入門を認められ、井波で修行することになった。丸6年の修行の後、故郷の三ヶ日に戻り彫り師としての活動を始める。弟子はとらず下絵から彫刻仕上げまでを一人でこなし、人物・龍・獅子など丁寧で繊細な作風に定評がある。引佐郡三ヶ日町鵺代在住。
福田では昭和組,天狗連,港連
→2002/05/01_訪問記
→2003/06/14_訪問記・敷地屋台彫刻の制作過程
→2004/07/18_章晴彫刻展
→2012/03/04_浜松市佐鳴台新屋台お披露目
→2013/06/23_訪問記(鹿嶋市の山車彫刻他)
→2014/04/29_訪問記(鹿嶋市の山車彫刻完成)
→2015/06/05_訪問記(YouTube)
→2015/11/18_中日新聞PDF
→2016/11/15_静岡新聞PDF/県優秀技能者
→2017/04/02_訪問記(潮来市の山車彫刻)


浦部一郎(うらべいちろう1907-2001)
浦部一郎号=清風、松寿
明治40年、豊橋市嵩山町の農家に生まれる。大正10年に建立された地元の正宗寺・唐破風造り山門を見て大いに感動。翌年小学校を卒業すると、この山門の作者である高須宗信に弟子入りした。修行中の昭和4年に浜松市「八幡町」の屋台彫刻を手がけたのが遠州の最初の仕事で、同年完成の同市「野口町」の屋台彫刻は師匠の高須作といわれる。(両屋台とも戦災を免れ活躍中)
約9年間の修行を終え昭和5年に浜松市利町に新居を構えて独立、以来堂宮・祭り屋台を手がけていくようになる。昭和19年名古屋へ徴用して終戦を迎え、昭和24年に浜松市元魚町に住居を構えた。以来浜松を中心に遠州地方の祭り屋台彫刻を精力的に手がけ、平成4年に掛塚「田町」屋台の彫刻を完成させて引退した。
福田では初代天狗連,宮本八番組(旧む組),新町連,だるま連
→遠州っ子人,言葉,祭り,生活 ひくまの出版
浦部さん作の力神(個人蔵・制作年代不明)


奥出多喜男(おくでたきお1898-1974)
奥出多喜男号=康運(こううん)
明治31年生まれ。愛知県名古屋市中村区花車町出身。幼少の頃より隣の小鳥町住人の堂宮彫刻師である伯父の酒井元次郎(蔵元)に師事し、神社仏閣関連の仕事に携わり腕を磨いたという。太平洋戦争による名古屋空襲で家を失い居を転々とし、昭和24年頃知り合いのつてを頼り遠州二俣に移住。ちょうどその頃新造された地元町の阿蔵「白山連」屋台の彫刻を任されたのが祭り屋台彫刻の手始めとなった。福田に作品が多く、日本の神話・故事・合戦物・昔話などを得意の分野としていた。
→二俣町阿蔵/白山連屋台
※1998/09/05(土)奥出家を訪問取材させていただき、息子の文男さんから貴重なお話を伺うことができました。ご協力ありがとうございました。
福田では宮組,おかめ連,新町連,十三番町


小山広樹(こやまひろき1986-)
号=無し
静岡県浜松市東区出身
2004年京都伝統工芸大学校で木彫刻専攻
2007年岐阜県岐阜市の奥土居 浩氏に師事
2013年帰郷、浜松市東区の実家で工房を構え独立
→2019/05/19_訪問記
→2019/08/25_貴布祢西町組腰蟇股彫刻


澤元清延(さわもとせいえん1985-)

静岡県磐田市出身
2003年富山県井波町にて澤義博氏に師事する
2011年年季明けで地元にて独立する
→2018/09/16訪問記
→澤元彫刻リーフレットPDF


祥雲(しょううん)

→2001/07/24_訪問記
→2005/03/06_訪問記
→2010/04/24_祥雲展
→静波伝統技法研究社 祥雲HP
→静波伝統技法研究社 祥雲facebook
→静波伝統技法研究社 祥雲Amebaブログ
→木彫刻 祥雲HP
→山梨仏具店HP


早瀬利三郎(はやせりさぶろう1897-1967)
早瀬利三郎号=清雲(せいうん)
名古屋の熱田区金山出身。尾張藩御用彫師の伝統を持つ早瀬長兵衛(彫長ほりちょう~八代目)門下の名人伊藤松次郎(彫松ほりまつ)の2番弟子として腕を振るっていたが、静岡県掛川市肴町の旧屋台(大正9年完成)彫刻の注文を受け出張した。その仕事の間にも他からの注文が多く入ってきたことから掛川で仕事をすることが多くなり、昭和初期に掛川の仁藤町に「彫栄堂ちょうえいどう」を構え遠州に定住するようになった。昭和15年~終戦まで浜松市肴町に、戦後に元城町へ移転。彫りの軽さとこなしの良さに定評があり、特に人物を得意としていた。
福田では宮本八番組,新町連,旧福田町ではこじまの木鼻


早瀬 宏(はやせひろし1933-)
早瀬 宏号=広雲(こううん)
父・利三郎の次男として掛川の仁藤町で生まれる。中学生の頃から彫刻を覚え始め、卒業して父の元で本格的な修行に入った。特に戦後は浜松が屋台建造繁忙期をむかえ、伝統ある尾張彫長(ほりちょう)系彫刻の名門として多くの屋台や神社仏閣の彫刻を担ってきた。平成元年に浜松市幸町に移転、平成4年完成の浜松市まつり会館展示屋台にも腕を振るった。「いい時代に巡り会えて多くの仕事を任せてもらうことができた。彫刻は軽い(繊細な)彫りが理想」という。
旧福田町では本田/ほ組
→まちかど_平成13年12月浜松信用金庫(PDF)


降籏清二(ふりはたせいじ)

→2006訪問記
→2007/09/30_袋井市不入斗/浅間車屋台彫刻披露


前島康利(まえじまやすとし1960-)
前島康寿号=成匠堂(せいしょうどう)
昭和35年(1960)生まれ。幼少の頃より彫刻に興味を持ち、中学3年のときに浜松市元魚町の浦部一郎氏を訪ねて彫刻師への足がかりをつかむ。高校に入ると材料を自費で購入してきては独学で彫刻を学び始めた。
本業は酒屋であるが彫刻師への夢は持ち続け、1997年特に作風の気に入った浜北市在住の仏師・雨宮國雄氏に弟子入り志願。外弟子として5年の修行を積んだ。磐田市掛塚砂町在住。すでに6台の屋台を手がけており、新造・修理に腕を振るっている。
旧福田町では「こじま」の持ち送り
→2009/05/24_磐田市堀之内新屋台披露
→JA遠州中央ときめきネットワークVol.153(2005年7月号)PDF


松林 洋(まつばやしよう1958-)
松林 洋氏2003/05/01号=青山(せいざん)
昭和33年(1958)大須賀町横須賀東本町に生まれる。根っからの祭り好きで地元に強い愛着があり、生まれた意義は祭りに携わるためという信念を持っていた。高校在学中にNHKテレビに出演されていた彫刻師・浦部一郎氏の作品を見て、彫刻を通して祭りに関わっていくことを決意。卒業と同時に浦部氏を何度も訪ねるが断られ、富山県井波町の加茂蕃山(かもばんざん)師を紹介してもらう。そこで5年の修行をして彫刻技術を習得した後帰郷、再び浦部氏を訪ねて通いで彫刻の手伝いを2年ほどした後独立。地元に店を構え、念願の自町祢里彫刻も昭和62年に完成させた。「伝統的なものを洗練させ、なおかつ個性豊かで力のある作品を生み出して生きたい」と地元の祭禮文化調査研究などでも意欲的に活躍中である。
屋号=不流庵(ふりゅうあん)
旧福田町では豊浜/大島


宮崎政光(みやざきまさみつ)

→2007/06/02_作品展
→2008/08/24_作品展
→2009/05/17_寺社彫刻展
→2012/09/09_浜松市西区志都呂北組
→2014/09/21_磐田市白羽新屋台
→2015/09/27_浜松市参野町新屋台
→2016/04/29_木彫刻作品展
→2022/06/19_浜松市西区志都呂西組


山田光雄(やまだみつお1926-2017)
山田光雄号=峨聖(がせい)
大正15年(1926)静岡県引佐郡生まれ。昭和16年に学校を卒業すると、当時浜松市肴町在住の早瀬利三郎氏に弟子入りした。戦後の浜松まつり屋台再建には師を助けて尽力、また千葉県成田山新勝寺本堂の彫刻にも参画している。浜松まつりは子供のお祭りであることから宗教色がなくわかりやすい日本昔話を主な図柄として取り入れ、中沢町の自宅工房で多くの作品を生み出した。写実性の高い彫刻として定評がある。平成5年には浜松市長より堂宮彫刻師として浜松市優秀技能賞を授与されている。2017年9月逝去。
旧福田町では昭和組,石田組
→2004/08/09_訪問記(各資料含む)
→浜松市公式YouTube/浜松まつりと伝統の技


《愛知県他》

阿部武夫(あべたけお)

愛知県豊川市の豊川稲荷のお膝元で三代にわたり堂宮彫師としてご活躍中の阿部豊雲さん。
2014/05/01訪問
→記事は編集中です


岩田新之助(いわたしんのすけ1898-1982)
岩田新之助号=冬根(とね)
明治31年、名古屋の葛町(かずらまち)で彫刻師の家に5人兄弟の次男として生まれる。10歳で父親を、11歳のときに兄を相次いで亡くし、家督を継ぐため12歳で半田の新美常次郎(彫常)に弟子入りした。彫常の2番弟子として活躍し、兄弟子の岩本桑次郎(流張)らとともに一門に大きく貢献。昭和2年頃に独立し、名古屋の古郷町(ふるさとまち)に住居を構えた。遠州にも作品が多く名人として知られており、浜松市浅田町・龍禅寺町や植松町など多くの屋台に腕を振るっている。写真は昭和11年の彫常還暦祝いのときのもので、38歳頃と思われる。(半田市立博物館発行「山車彫刻の技2 彫常」より許可を得て掲載)
福田では奴連,ひ組


江坂鐘平(えさかしょうへい1899-1982)
江坂鐘平号=なし
明治32年愛知県岡崎能見町のお菓子屋(餅屋)大阪屋の次男に生まれる。学校を卒業した頃近くに建立されたお寺の彫刻に興味を持ち、世話方だった祖父の薦めもあって当時岡崎市康生町の住人であった作者の堂宮彫刻師・中山由太郎に弟子入りした。20歳の兵隊検査まで修行して後に独立。掛塚横町の大孝建築・平野孝頭領との関係で遠州地方の屋台に作品が多く、掛塚貴船神社水屋の蟇股にも作品を見ることができる。また昭和35年建造の岡崎市松本町の屋台もこのコンビである。大黒とねずみを最も得意な図柄としていた。
福田ではい組,十四番町


江坂兵衛(えさかひょうえ1928-)
江坂兵衛号=なし
福田ではい組,十四番町
訪問記~経歴まとめ2014/08/15


→彫刻師 栗田剛(外部リンク)


近藤直登(こんどうなおと1949-)
近藤直登号=直人(なおと)
昭和24年(1949)に愛知県の三河一宮に生まれる。岡山県の大学時代に彫刻師・山本一雄(やまもとかずお)氏に巡り会ったことから彫刻の仕事に興味を持ち、生涯の仕事とするべく弟子入りした。山本氏は社寺や大阪の地車(だんじり)彫刻などを手がける腕のいい親方で、そこで10年間修行し昭和56年に独立。故郷へ戻って豊橋市下地町にこんどう木彫店を構えた。「かつては台湾、最近では中国製の安い彫刻に押され厳しい業界ではあるが他にはない個性のあるものを彫っていきたい」と日々創作活動に励む。
→こんどう木彫店HP
→ブログ・大本山永平寺名古屋別院 永平開山行状記図絵
旧福田町では旧新田組
→2002/05/01_訪問記
→2007/06/27_恵比寿屋台の経緯


鈴木嘉一(すずきかいち1912-2003)
鈴木嘉一号=秀雲(しゅううん)
明治45年4月1日岡崎に生まれる。子供の頃から絵を描くのが好きで、創作の仕事に憧れていたという。当時の小学校を14歳で卒業すると、世話人を介して岡崎市東本郷の堂宮彫刻師・川辺哲二郎(かわべてつじろう~中山由太郎の弟子)に入門。厳しい徒弟制度のなかで7年間の修行をして年季が明け21歳で独立後、三河安城に住居を構える。祭り屋台は浜松市上新屋町(昭和54年完成)の屋台彫刻を同町から直接依頼されたのがきっかけで、その後も同大工(小池工務店)と組んで十数台もの実績を築いた。平成4年完成の浜松市まつり会館展示屋台にも腕を振るう。平成12年に引退。
旧福田町では南島,十五番町
→2001/02/02_訪問記


志村桑次郎(しむらくわじろう1892-1974)
号=流張(りゅうちょう)
明治25年名古屋生まれ。志村家は名古屋の中区大須門前町の米屋で、末っ子であったことから好きな道に進もうと家を出て半田の新美常次郎(初代彫常=ほりつね)に師事。一番弟子として腕を振るっていたが大正8~9年頃福井県三国町「性海寺」の欄間彫刻のために出張。ところが地場産業である三国仏壇彫刻の後継者不足などの背景もあり、地元の要請を受けて三国に定住するようになった。号の「流張」は三国に住むようになってから付けたもので、尾張の流れを汲む彫師という意味である。堂宮から仏壇彫刻など幅広く仕事をこなし名人と謳われたが、83歳の時、浄応寺の欄間を彫っていて亡くなった。写真は昭和11年の彫常還暦祝いのときのもの。


志村 孝(しむらたかし1920-2006)
号=流張(りゅうちょう)
大正9年(1920)福井県坂井郡三国町で生まれ、物心ついた頃から道具に触れ父桑次郎のもとで彫刻一筋に修行を積んできた。とくに戦後の浜松屋台復興期には彫栄堂(早瀬利三郎さん)の仕事を手伝うために父桑次郎と共に浜松に住み、昭和27年/相生町屋台を手始めに多くの作品を手がけている。昭和53年頃静岡県の修善寺温泉で痛めた腰の湯治中、遠州森町南町の大工・故寺岡勝郎氏と知り合ったことが縁で屋台彫刻の仕事を受けるようになったため、森町を中心に周辺地区にも作品が多く親しまれている。よく表記される「志村孝士」は孝氏自身の考案による見た目のバランスを考えてのことで、戸籍上の本名は上記の通りである。号は父を受け継ぎ2代目流張としている。
→2004/05/02_訪問記


《MEMO》
・名古屋の昔の町名で、葛町は現在の松原1丁目・2丁目・正木1丁目。古郷町は現在の松原2丁目になります。
・明治45年は7月30日まで・大正15年は12月25日まで・昭和64年は1月7日まで
・職人さんにお話を聞いていると、皆さんこの仕事に誇りと情熱を持って取り組んでおられることがよくわかりました。彫刻の見方を教えていただいたり、作品の苦労話や興味深いエピソードなどを熱心に語ってくださいました。時代は21世紀になりましたが、職人さんが精魂込めて生み出した作品というのはいつの時代にも通じる魅力があるのではないかと思います。(2001/05/26)

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