江坂兵衛(えさか ひょうえ)さん2000/02/27撮影
福田屋台で「ひ組(一部)」「い組」「十四番町」の彫刻を手がけた岡崎市の江坂鐘平さん兵衛さん親子。最初に兵衛さんをお訪ねしたのは2000年。当時のお話と2014年に4回にわたり訪問させていただいた内容から記事を構成しています。
《訪問日》
2000/02/27,2014/06/02,2014/06/15,2014/07/28,2014/08/11
訪問,写真撮影,記事作成/mitsuya noriyuki
堂宮彫刻師・江坂鐘平の次男として昭和3年愛知県岡崎に生まれる。
当時の高等小学校を卒業後、岡崎市戸崎町の刀匠・筒井清兼(つついきよかね)に師事。日本刀や軍刀の研磨師をしながら終戦を迎えた。兄の戦死は自分が「人切り包丁」に携わってしまったせいだとの自責の念から、戦後は悩んだ末父の内弟子の紹介で京都の仏師のもとに通い、仏像づくりに励むことで兄の供養とした。
ここで学んだことは、技術を身に着けたければ受け身で黙っていては何も教えてもらえないということ。「覚えたければ自分からどんどん質問し人のやっていること見て盗むべし」を身に沁みて実感したという。
▼観音菩薩像~兵衛作
木彫刻の師匠は堂宮彫師として生計を立てている父(鐘平さん)である。
「自分が教えるから他所へ出る必要はない」とよく言われた。北斎漫画等や雛型本を手本とする伝統的な木彫刻の修行をしながら、興味のある美術の分野にも目を向け、いろいろな人に教わってきた。
▼石彫中 向かって右端が兵衛さん
岡崎は古くから知られた石の産地。その石を材料として芸術品を生み出す石彫家・鈴木政夫(すずきまさお)氏は在野のトップであり石彫の師匠であった。毎朝家の前を通り仕事場へ通う鈴木政夫氏と親しくなり、仕事が暇なときに訪ねては石彫を習い多大な影響を受けた。
(ロダン - ブルーデル - 木内 克 - 鈴木政夫)
創作活動を続ける中、周囲の推薦もあり比較的自由で自分の肌に合う二紀会に出品する機会が増えた。東京の展覧会で二紀会の委員・菅沼五郎氏に作品の審査・アドバイスを受けることが励みとなり精進、賞を取るまでになった。
▼2000年2月訪問時
※にき‐かい【二紀会】
美術団体。1947年創立。44年解散の旧二科会を第一紀とし、新たに第二紀を作りあげることを目指して結成。
広辞苑第六版より引用
仏師・木彫刻・石彫・芸術家と多彩な顔を持つ兵衛さんは「誰が師匠なのか一口では言えない。いまの自分があるのは多くの方のおかげ」と振り返る。「旧来の伝統手法を踏襲するだけでなく、それらを応用していくためには職人はもっと勉強するべき。屋台を本当の意味での(日光陽明門のように)どこに出しても通用する芸術作品にしたい」と、学んだ近代美術を屋台彫刻にも取り入れていく意欲を見せると父の鐘平さんは
「自分の教えたとおりにやっていればいいんだ」とは言いながらも兵衛さんの積極的な創作意欲に理解を示してくれたという。
美術芸術の世界では、評価に誰もが分かる明確な基準がなく、よって展覧会で認めてもらうには学歴派閥がモノをいう。そんな仕組みを嫌い、屋台彫刻にも近代美術を応用することで創造性・自己表現の場を広げ、誰にも真似のできないマルチ職人&芸術家として、真にいい作品とは何かを追求し美術界に対する自分なりの挑戦をしていくことになる。
▼岡崎市内で開いた個展(御夫婦で)
《屋台彫刻》
初の試みが世代交代の時期に携わった昭和25年(1950)完成の浜松「鍛冶町」屋台彫刻であった。題材は安藤広重の木版画「東海道五十三次」。日本独自の風俗・習慣の結晶であるこの作品を、遠近法を用いて立体的な木彫刻に表現することで新たな境地を開いた。また刀鍛冶の下で働いていた経験と「鍛冶町」にちなみ、正面の鬼板は能の演目「小鍛冶こかじ」とした。実体験から確かな表現になっていると胸を張る。
「そうはいっても自分のオリジナルばかりでは受け入れてもらえない。ほとんどの人は判断に迷うからだ。他との比較ができる伝統的なものも入れて実績を示すことで自分の新しい創意も受け入れてもらいやすくなる。」と見る側の心理にも気を配り、この頃から一台の屋台彫刻を一つのテーマでまとる手法をとっていくようになる。
江坂鐘平さん兵衛さんで遠州を中心に浜松市・福田町・袋井市・掛川市他の山車屋台を20台あまり手掛けてきた。「号は持たないことにした。兵衛で通している」
最後に「芸術家と職人との違い」をお聞きしたところ「明確な線引きはできないが、思想が先にあるのが芸術家だと思うよ」と言われました。
何度も訪問させていただき、先代の父・鐘平さんが戦前から手掛けられた屋台の写真も見せていただきました。デジカメ複写ですが公開許可をいただきましたので掲載させていただきます。
兵衛さんアルバム写真をみる(戦前の浜松屋台を含む)
《エピソード・大樹寺》
昭和34年(1959)の伊勢湾台風で被害を受けた名刹・大樹寺の修復を、日頃懇意にしている御住職から相談された。そこで兵衛さんは屋台で繋がりのある遠州掛塚横町の堂宮大工・平野孝頭領に修理を依頼。平野頭領は一門を引き連れて修理にあたり無事復興を果たした。御住職は兵衛さんの尽力を称え、記念の感謝状と写真を贈った。
▼前列向かって右から3人目が平野孝頭領、7人目が兵衛さん
《エピソード・徳川家康像》
昭和46年(1971)に、岡崎の藩校・允文館(いんぶんかん)の樹齢約200年の大きな松(元は隣接する浄瑠璃寺のものと思われる・兵衛さん談)が松くい虫の被害で枯れてしまった。
地元の人達に親しまれている松であることから、当時の岡崎市立城北中学校の初代校長・鈴村正弘(すずむらまさひろ)氏が何らかの方法で遺したいと思案。岡崎に縁のある徳川家康の像を翌年の同校10周年に間に合うよう兵衛さんに制作依頼した。そこで兵衛さんはかつて伊勢湾台風で傷んで修復したことのある大樹寺の厨子と家康像をモデルとし、原型なしで木に直に彫刻し見事に仕上げた。
翌昭和47年(1972)同校の創立10周年記念式典にて完成した徳川家康像を披露されると、出席した来賓の小説家・山岡荘八(やまおかそうはち)は「最も史実に近い。これだけのものを彫刻できる人が岡崎にいるとは驚いた」と感嘆したという。
《エピソード・栄町》
屋台彫刻の中でも思い出深いのは袋井市栄町(昭和49年完成・棟梁は地元の窪野五夫さん)。テーマは日本の舞踊。組の意向で徐々に彫刻を付けていき、完成まで約15年を費やした。
同屋台に付く「束越しの龍」は一木をくり抜くため自宅工房で束の模型を作り、それに合わせて彫り込むという手の込んだ力作となった。
《福田ひ組屋台の揚虹梁》
アルバムに見覚えのある彫刻があり伺ったところ兵衛さんの作であることが確認できました。「伊勢物語~在原業平の東下り」 と判明して大収穫です。
2014/06/02
《余談》
2014/07/28月曜日_岡崎城と大樹寺を見学
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