遠州福田六社神社祭典
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木彫師 降籏清二(ふりはたせいじ)さん 工房 造形処 求道庵(ぐどうあん) 2006/03/20月曜日 「長野県のご出身ですか」 「ええ、諏訪の岡谷市に中一まで住んでいました。家のまわりには神社仏閣が多くて、大隈流や立川流の建築がわりと身近にありました。そういうものを当たり前のように見て育ったんです。祖父は諏訪で最初の木型職人で父もその仕事を継いだものですから、ずっと木の香に囲まれた生活だったんです。その後父の仕事の都合で塩尻へ引っ越すことになります」 「高校を出て大学へ進まれたのですね」 「進路を決めるときに最初は理系を目指したんです。で挫折しましてね(笑)。それでまあ子供の頃から絵を描くのは好きだったものですから、美大を目指そうと。でもそれだけでは食えないかもしれないから、将来性を考えて教育の美大にしたんです。好き分野の教師なら安定でいいかと」 「奥様とはその頃出会われたとか」 「大学の部活の後輩になります。横須賀の西田町出身なものですから、毎年春と秋には一緒にこっちへ来ましてねえ、祭りを叩き込まれました(笑)。妻はいわゆるねりきち(三度の飯より祭りが大好きな人の横須賀固有の呼称)なんですが、私はどうしても幕や彫刻に目がいってました。 「彫刻師になろうと思われたきっかけは」 「平成9年だったと思いますが、地元西大渕の祢里(山車)を造りかえる話が出まして、建設委員会が発足したんです。で、美大を出ていて絵が描けるということから委員会に加えていただきまして。まぁいろいろな案を図案化する役目ですね」 平成12年完成 西大渕「み組」の写真が飾られていました 「それで師匠の松林さんとの接点ができた」 「そうなんです。平成10年のことだったと思います。仕事場へ上がらせていただいたらちょうど横須賀西新町の支輪を彫られていまして、一目でこれだ! と思いました」 「ビビッと電流が走ったみたいな(笑)」 「ええ、まさにそんな感じです。それで同年の夏休みに1週間ほど休暇をいただきまして、師匠の下で体験入門みたいなことをさせていただいたんです。そのときは石津の支輪彫刻の仕事が入っていたときでした。じっくり見せていただき、もうこれしかないと確信したわけです。で、夏休みが終わると学校に退職届を出しました」 「え、先にですか!?」 「はい。学校側の来年度の採用の都合などもありますから。それに心に決めましたので。それで翌平成11年の年始の挨拶で師匠を訪ねたときに、仕事辞めますから弟子にしてくださいとお願いしたわけです」 「師匠は何と…」 「こう腕を組まれて、う~~んと考え込まれて、まあしゃあないなあ、と。師匠が言われるには、本来弟子というのは住み込みじゃないといかんのらしいです。でも私の場合には所帯も家もあるので、通いで修行させていただくことになりました」 「修行はどんなことから始まりましたか」 「先ず面からでした。祭りのときに使うあの面です(↑壁に飾られた面を指して) 自分では器用な方だと思って軽く考えていたんですが実際に修行が始まると、もう全くだめでした。美大を出ているんだというプライドは粉々に打ち砕かれましたねぇ。プロの職人の前では通用しない。師匠からある課題を与えられて、自分ながらに考えて仕上げるわけです。で、恐る恐る師匠に"一応出来ました"って見せるんですね。すると開口一番"一応って何や?"と返されるわけです。職人の仕事に一応はないと。施主さんに一応出来ましたって持っていかないですよね。自分の中にどこか誤魔化しがあるから出てしまう言葉なんですわ。そういう妥協は一切許されませんでした。何度も厳しい世界なんだと痛感しましたよ。あるときは自分の脇に来て、じーっと手元を見られる。でもなんにも言ってくれんのですよ。こっちは気が気じゃない」
「彫刻師に求められる要素として絵が描けるというのは、かなり有利だったのでは」 「うーん、そうでもないんですよねぇ。僕らが描く絵というのは油絵なんですが、モノの輪郭を描くにしてもサッサッと少しずつ何本もの線で描くんです。はっきり描かずに雰囲気を出すためにぼかす場合もある。でも彫刻の下絵となるとそれじゃ彫れないんですよ。はっきりしてなきゃ通用しない。師匠の絵はためらいのない一本の線なんです。で、彫刻になると面の流れが巧みに表現されている。ずいぶん考えさせられました」 「かなり悩みながら修行されたわけですね」 「そりゃもう。こういう性格ですから、師匠もこいつにはよく考えさせにゃあかんと思ってやってくれていたことだと思っています。師匠が彫った荒彫り(彫刻の初期段階)を仕上げることで彫り方をとことん勉強しました。口で説明するより手で示してくれるんですね。ただ師匠は左利きなものですから、手先の動きをすぐ自分に投影しにくいジレンマはありました。外へ出ていろいろ見て来いと言われるので、社寺はもちろん遠州一円の祭りはできる限り足を運んでは彫刻を見ました。福田も行きましたよ」 「いろいろ苦労されて2005年に年季明けですね」 「はい。4月の祭りの後師匠から話しがありまして、6年経ったのでここらで年季を区切ろうかと。自分としてはまだまだだと思っているんですが。よくここまで面倒見ていただいたと深く感謝しています」 家の表札 「号とか屋号なんかは」 「造形処としていますので美術関係を中心に幅広くなんでもやりますよ。表札から不動明王、下の仁王像もご注文いただいたものです。求道庵(ぐどうあん)とは自分が昔から取り組んでいる少林寺拳法からくる言葉です。作号はとくに考えていません。いずれは山車彫刻を手がけられるようになってみたいですね」 高3、高1、小4の3人の息子さんをお持ちの降籏さん。上のお二人は師匠の松林さんのところで祭りの笛も教わっているそうで「将来誰か一人でも彫刻の道を継いでくれたら嬉しいんですが」と語ってくださいました。これからのご活躍を期待しております。お忙しい中ありがとうございました。 2006/11/16木曜日 降籏さんから「屋台の彫刻を手がけていますよ」とのご連絡をいただき、見学させていただきました。 正面 龍 厚さ4寸5分 正面御簾脇 右大臣・左大臣 鯉の瀧登り・鶴に松 下絵比較 脇障子 厚さ4寸
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