□宮組物語 ホーム

宮組の歴史は、昭和初期の昭和天皇御大典記念までさかのぼることができます。
大きく分けると「馬力屋台」「2代目子供連」を経て「宮組本屋台」となります。

【 馬力屋台 】

 昭和初期の福田には、本屋台と呼べるものは「東屋台」と「西屋台」の2台だけで、あとは簡素な花屋台などがいくつかの組に存在していたようです。ちょうどこの時期に行われた昭和天皇御大典記念をきっかけに、手造り屋台を持つ組が増えてきました。
 六社神社周辺には現在ほどの戸数はなく、この昭和天皇御大典記念を期に共同で祭りの組織「子供連」を作り、右の写真のような馬力屋台(ばりきやたい)と呼ばれるものが登場しました。これが宮組の前身です。
 この馬力屋台というのは馬車の荷台を土台として利用し、柱を立てて櫓を組み、幕や提灯等を飾り付け、上には山車人形を載せた4輪の屋台でした。方向転換は前輪を足で蹴とばしての曳き廻しであったといいます。
(撮影場所は当時の吾妻湯の前)

【 2代目子供連 】

 その後、簡素ながらも4輪の破風造りで、分解・組立可能な屋台が造られました。彫刻などはなく、欄間などにはめ込まれた板には絵を描いた紙が貼られており、大きさは現在の屋台とほぼ互角であったようです。
この子供連屋台というのは、本通りの商店街で無尽講(むじんこう)をやっていた人達が主にお金を出し合って造った屋台でした。この屋台は普段は解体された状態で、当時の杉浦商店向かい側の消防小屋に納められてあり、お祭りになると組の人達の手で組み立てられ、昼間のみ曳きまわしが行われました。このため提灯などの装備はなく、また曳くといっても短い距離を行ったり来たりするだけだったようで、祭りの中心となる青年達はというと皆「東屋台」に参加しに行ってしまっていたそうです。
 これが2代目子供連になるのですが、昭和26年に宮組の本屋台が建造されると、同じ福田の1番組に売却されました。そして昭和31年に1番組の本屋台「い組」が建造されるとその役目を終え、この2代目子供連屋台は、磐田市二之宮に売却されていったのです。

【 無尽とは 】
 互助的な金融組合。組合員が一定の掛け金をなし、一定の期日に抽選または入札によって所定の金額を順次に組合員に融通する組織。鎌倉時代から行われていた。頼母子講に同じ。(岩波書店広辞苑より)

【 宮組本屋台 】

1.屋台本体の完成まで 
 さて当時建設委員を務めた方の話によると、本屋台建造の話が持ち上がったのは昭和22年〜23年頃からだそうです。組の役員の人達が掛塚貴船神社のお祭りへ足を運び屋台を見学して、当時活躍されていた掛塚中町の堂宮大工・小池佐太郎棟梁に屋台の建造を依頼することに決めたのだといいます。

クリックすると65KBの画像に拡大 掛塚は毎年10月第3土・日にお祭りがあります。天竜川河口の掛塚湊は、特に江戸時代初期から明治時代まで江戸〜大阪を結ぶ海上輸送の商業港の拠点として「遠州の小江戸」とまでいわれるまでに栄え、また絢爛豪華な祭り屋台も造られてきました。そして、その屋台のスタイルが天竜川流域の各地域に広がっていったと考えられています。
(写真右=掛塚屋台祭り)
 掛塚の東隣に位置し明治時代より掛塚から屋台を取り入れてきた福田ですから、本屋台建造に際しても本家である掛塚の大工に依頼することになりました。

 ところが、屋台建造のための資金繰りに関しては、なかなかの困難があったようです。
財政を福田区で管理する戦前までの慣習が残っており、戦後の繊維産業の好景気時期であったとはいえ、今のように戸数割りで資金集めが出来たわけではありませんでした。また、考え方の違いや宗教上等の理由から、「屋台なんか必要ない」という人もいたりして、意見の調整と資金繰りには役員の人達のご苦労があったといいます。よく近隣の町の人からは「福田のはガチャマン屋台だ」という声もききますが、決して簡単に屋台が出来たのではなかったのです。
(ガチャマン=ガチャンと織れば万単位で儲かるという当時の繊維産業の好景気を表した言葉)
 屋台の棟木には「昭和弐拾六年十月十三日上棟」とあり、この日に屋台が完成して受け取り、掛塚から福田まで曳いてきて、当時10月14、15で行われていたお祭りの前夜祭として夜の9時まで初の曳き廻しが行われました。また4番組・5番組・8番組合同の祭り組織で六社神社の宮本であることから、ここに初めて「宮組」という名称が付けられました。

屋台完成時の集合写真
昭和26年10月14日
2.彫刻の完成
 屋台本体が完成すると、今度は彫刻です。上の集合写真を見ていただくとおわかりのように、屋台にはまだ彫刻が付いていません。
屋台を造るのは大工ですが、彫刻は別の職人の仕事になります。現在では大工と彫刻師がペアを組んでいて、屋台新築依頼すると彫刻までセットになって納品されてくるのが普通になっていますが、この頃はまず屋台本体を造り、次に彫刻師を探すなり大工に紹介してもらうなりして徐々に完成させていくような時代だったようです。
宮組では彫刻師のあてがなかったので棟梁の紹介に委ね、天竜市二俣の奥出多喜男(おくでたきお)氏に依頼することになりました。
 奥出氏は名古屋出身。空襲で家を失い戦後二俣に越してきたばかりの遠州にはまだ馴染みの少ない人でしたが、昭和26年同大工によって完成した二俣阿蔵「白山連」屋台の彫刻を手がけた実績がありました。
宮組では寄り合いを開き、奥出氏に全て一任することで意見がまとまり、「縁起の良いもの、勢いのあるもの」をテーマに依頼することになりました。
 それから彫刻が完成するまでの約2年間は、毎日曜日ごとに何人かでグループを作り、手土産を持っては二俣まで仕事の応援に行きました。彫刻というのは根気のいる手仕事ですので少しでも丁寧にやってもらおうと、当時の組の方々は躍起になって通ったといいます。(写真=右)
 結局当時のお金で、屋台本体に38万円、彫刻には50万円の費用がかかりました。完成当初は、屋台に漆塗りを施すという案もでたようですが、資金などの条件が整わず白木のままになったという経緯もあります。

3.彫刻裏話
 屋台正面の高欄部には2体の巻龍が取り付けられています。これは一つの欅材をくりぬいて彫られた力作で、昭和30年代に入ってから全彫刻の中で最後に完成しました。
この巻龍のヒントになったのは、実は大須賀町横須賀の祢理(ねり=2輪の江戸型山車の横須賀固有の名称)でした。
 福田のお囃子は古くから横須賀三熊野神社大祭の「三社祭礼囃子」に習ってきており、この頃の宮組では「め組」に笛吹きを頼んでいました。この「め組」の祢理には高欄部四方に巻龍があり、「宮組にも欲しい」ということになったわけです。

【 平成の大修理 】

 建造から約半世紀を活躍してきた宮組屋台は至る所で老朽化が目立ちはじめ、安全・保存の観点から修理を望む声が多くなり、平成8年(1996年)(有)小池工務店に依頼して大がかりな解体・修理を行いました。
この修理を担当した小池清棟梁は小池佐太郎氏の次男で、当時宮組の建造にも携わっており、棟木にも名前が入っている大工さんで、伝統工法で屋台を造ることができる現在では数少ない職人のひとりです。
修理方法としては土台、柱、屋根まわり等を交換・調整することでガタつきを直し、ほぼ新築に近い状態まで回復することができました。
 実際に屋台を曳いてみるとわかるのですが、屋台の動き・揺れ方がガラッと変わりました。素人目にも造りが締まっているなというのが実感でき、曳きやすく曲げやすくなり、安心してお祭りができるようになりました。

【 宮組50年祭 】

 昭和26年(1951年)に本屋台が建造され「宮組」として祭典を行うようになって、平成12年(2000年)でちょうど50回目を迎えました。それを記念して祭典初日10月14日午前11時より宮組祭典本部前にて記念式典が行われました。
最初に役員の方のご挨拶、当時建造に携わったご年輩の方々の紹介、今年の各係長の紹介、餅まき、お囃子披露、最後に記念写真撮影をして終了となりました。
(2001/09/15更新)

←戻る